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大日本サムライガール (2)(至道流星)

大日本サムライガール 2 (星海社FICTIONS)大日本サムライガール 2 (星海社FICTIONS)
(2012/08/17)
至道 流星

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二人のアイドルの類似・相違

 某ネット書店のレビューを読んでみると、神楽日毬に比べると朝霧千歳のインパクトが薄いという意見が多くみられたが、これは誤解だと思う。朝霧千歳も十分、神楽日毬と同様の異常性を持っている。実際、二人とも目的は異なるが、その実現のための方法論はほぼ同じと言ってよい。いずれも自分自身の価値を“機能”としてしか認識していないのである。

 神楽日毬が自認する機能はふたつ。ひとつは神楽家を存続するための胎となること。もうひとつは日本国を再生するための礎となることだ。後者の方は本人が散々喧伝しているので自明ではあると思うが、前者も作中の彼女の言動から読み取れる。それは、結婚するまで処女を貫くとか、夫に貞節を尽くすとか、神楽家の歴史を語ったりするところだ。
 彼女が日本国首班となるために捨てたのは、あくまでも職業選択の自由のみである。そして、それを達成するための妨げとなるあらゆる「私」である。ここで、“家”は「私」ではなく「公」であることに注意したい。「公」であるがゆえに、結婚するのは当たり前だし、子どもを産むのも当たり前という認識にあると解釈して良いだろう。

 一方、平凡な女子高生と見なされている朝霧千歳だが、ある意味で、神楽日毬よりも自己犠牲の精神が強い。彼女は連綿と続く歴史を背負った家系の生まれではない。ゆえに、子どものころから家のために尽くす精神を植え付けられてきたわけでもない。しかし彼女は、自分の体を売っても、AVに出ても、愛人契約を結んでも、あらゆる女としての幸せを放棄して、家族のために尽くそうとしている。
 この意味で、朝霧千歳が捨てたのは、職業選択の自由どころではなく、「私」の全てである。極論するならば、自分が消えて家族が守られるならば、彼女は本望だと思うだろう。

 「私」を捨てて何かに尽くすという意味で、二人の本質は同じである。もし違いがあるとするならば、それは時間という視点を持っているかいないかだろう。神楽日毬は過去から未来に血脈をつなぐための子どもと、それがある国を残すという時間的な視点を持っている。一方で、朝霧千歳は未来すらも担保にして現在を買い取る姿勢であるため、彼女自身の時間は止まっている。
 こう考えると、朝霧千歳は十分に異常なキャラクターであると言えよう。

 それではなぜ、朝霧千歳が平凡に思われてしまうのか。それは彼女の行動が、中世的な感覚ではよくある行動だからではないだろうか。つまり、時代劇などにおいて女郎に身を落とす少女というのは、大概、実家の借金を返すために親に売られている。娘を金に換えるというのは、中世的には当たり前の考え方だったわけだ。
 だがこの考え方は、リバタリアニズム(これからの「正義」の話をしよう参照)の文脈では異常な決断である。もし読者がこの視点で考えれば、朝霧千歳を平凡などと誤解するはずもない。そう感じるのだとしたら、読者にコミュニタリアニズム的な考え方が根付いていると解釈しても良いだろう。

 つまり、この作品に登場するアイドルは、いずれも自分の“自由”を犠牲にして、何かを得ようという意思を体現している人物である。ここに、作者の思想が隠されている気がして仕方がない。




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